嘘の世界は心地いい

新渡戸稲造の像は有名です。教育機関のいたるところに設置されています。しかし、最近になって衝撃の事実を耳にしました。それは、彼は「薪を背負って本を読みながら歩いていなかった」というものです。これにはとてつもないショックを受けました。私は子供の頃、一人稲造ゴッコを楽しんでいたのです。言ってしまえば、隠れファンでもありました。それが、フィクションだったのです。
これは、何かの創作で作られたイメージのようで、それを聞くと、失望から逆に「すごいな」と思いました。作った設定で人々を信じこませることのできる力というのは偉大です。私は、そんな力を持った作家を二人ほど知っています。どちらもすごく著名で、故人なのですが、かの歴史小説家で有名なあの方々です。
時代小説はそういう意味で言うと、創作の塊です。その時を体験しないで「多分、こうだろう」という憶測で筆を進めていることが多いと思うのです。だからこそ、の凄さを感じています。経験していない事を妄想できる、その発想力。そういう能力ってどうやれば手に入るのでしょうか。希求しています。無いものをあるように見せる、それは、素晴らしいことです。そもそもお話自体が虚構です。やっぱり、尊敬します。

優しい記憶

この前、ある人と一緒に書店に行って各々が好きな本を選んでいたのですが、文芸雑誌でとびきり面白い文章を見つけてしまい、それを併設しているカフェに持って行き、ニヤニヤしながら観ていると、知り合いがいつの間にか目の前に立っていて「何、微笑ってるの?」と聞いてきました。
私は眺めていたページを指さして「これ、読んで」と差し出します。数秒後、彼女の顔に笑顔が浮かびました。それを見て、ああ、こういう瞬間がもしかしたら幸せなのかもしれない。と気付かされたのです。「おもしろい!」と思ったものを誰かと共有し笑い合えるというのは素敵なことですね。だから、映画とか、ドラマとか、テレビも、舞台も誰かと観たほうが楽しいのかもしれません。
一人で味わう楽しさ、というのも世の中にはたくさんあると思います。ですが、他者と語り合えることもとっても大切な事だと思うのです。何気ない一瞬がとても貴重だったり、幸せなことだったり。何も、記憶に残るのは衝撃的な出来事だけではないんです。ふと、思い出すことの中には、なぜこの場面が色濃く残っているのだろう、というのもあって、でもきっと、それは私にとってキレイで優しい記憶なのだろうなって。そういうのを積み重ねていけたらな、と最近では考えています。

たのしいおえかき!

先日の雨の日、出かけようとおもっていたのですが、雨天中止で溜息をついていたところに友達から電話が入りました。「どうしたの?」と聞くと「今から暇? 色鉛筆ある?」とのこと。不思議に思いながらも「うん」と答えると、それから一時間後、うちにやってきて、「お絵かきしよ」とのことでした。その子は最近、創作に凝っているらしく、私に教えたかったらしいのです。インコを描いたのですが、コツを説明してもらいながら塗っていくとびっくりするほど上手になって、私も嵌ってしまいました。動物や植物の図鑑があるので、それを引っ張り出してきて、かたっぱしから練習。楽しいのです。
普通の画用紙を使っていたのですが、そのうち、紙の質感によっても見え方がだいぶ違うことに気づき、ありとあらゆる種類を買っきて片っ端から試していきます。そして、すごい発見をしてしまったのです。
それこそが、「トレーシングペーパー」これはビックリです。自分のことを天才か!と思ったほど。これを、持っている本のブックカバーにすると凄くいいことが判明しました。適度に透明ですから、従来のもののように「あれ? これなんだっけ?」と題名が分からなくなるということもなく、しかも、自分の書いたイラストの配置次第でいい感じのアクセントになっているのです。これは、行けます! ぜひお試しあれ。

小説家はスゴイ

家の大掃除をしていると、古い小説が出てきました。今の形状ではなく、かなり昔のものです。誰のものか分からず、でも面白そうだったので、めくってみると、旧字で全く読めなかったのです。戦争前の本でした。こんなに文字がこの短期間で変化してきたのだと思うと、とても感慨深くなりました。言葉はとても不思議です。とくに日本語はひとつでもいろいろな意味があり、伝え方によってもかなり変化します。「雨」「飴」の違いは一例に過ぎません。「あつい」でも「厚い」「熱い」「暑い」と漢字もバリエーションが豊富。「こんなに表現が豊かな国はこの国以外あんまりない」と聞いたことがあります。
お花の表現もそうです。梅はこぼれる、桜は散る、椿は落ちる、牡丹は崩れる、沈丁花はこぼれる、雪柳は吹雪く、すももははだれ、菊は舞うと。なんて美しいんでしょうか。
思ったことを伝達する手段だったり、手紙やメールでも使います。簡単に扱えるものなのです。
しかし、物語を作るのは、それを誰かに面白く思ってもらうための技術は技と工夫が必要です。小説の創作はとても難しいのです。いつも何気なく意識せずとも使えるものなのに、そうすると、なんてハードなんだろう、と実感します。プロはスゴイです。

迷子のセンター本読み

この前の休日、地元から少しだけ離れたところにある大型ショッピングモールに、のびのび一人で遊びに行きました。帰りに食材と少し雑貨を買って帰ろうと思いながらも、エレベーターで一番上の階まであがり、お店を順々に眺めたり入ったりしながら見て回ります。そうやって目を楽しませていると、5階、おもちゃ売り場の近くの自動販売機の傍で火を噴くように泣いている子供がいました。
近寄って「どうしたの?」と聞いても、何が悲しいのか、わんわんと声を上げるばかりです。周りを見回しましたが、その子のご両親らしき人はおらず「あ、これは!」と気付き、しゃがみこんで、「一緒にお母さんかお父さん探そうね」というと、手で顔を覆いながらもコクンと頷きます。「放送で呼びかけた方が早く見つかるから」と言うと、眼をゴシゴシ擦って、手を差し出してきました。私はあまりの可愛さにキュンとしながらも、その手をつないでインフォメーションカウンターに連れて行きます。
そうすると、モールの中の迷子センターに案内されました。そこで、役目は終わり。センター職員の女性が、絵本やぬいぐるみを持って和ませています。その手慣れた対応や、お話を読むときの優しい口調になんとなく嬉しい気持ちになって、必要な物を買い、家に帰りました。

開放される瞬間

先日、とんこつ系が美味しいと評判のラーメン屋さんにお昼に行って、注文をして店内を見回すと、私以外の全員が中年の男性でした。皆、下を向いて何かに追い立てられるように麺を啜っています。なんとなく、気まずくなります。こういう妙な疎外感を割りと頻繁に感じていて、例えばお店に行くと店内全てがお年寄りだったり、なんとなく年代が同じ、性別が一緒の人たちがいるのを確認してしまうのです。
もちろん後から考えてみたら、なんてくだらない事で悩んでいたのだろうか、どうでもいいじゃないか、とは思うのですが、そういう時、とてつもない違和感、といいますか、コレジャナイ感を感じてしまうのです。馴染む場所、他から見て出っ張ってない自分、というのをすごく意識しているのだと思います。ですから小さなことで妙に気詰まりになるのです。もう少し図太く生きていかなくてはなりません。
そんな私にも、そんな小さな煩悶を気にせず過ごせる場所があります。年代性別関係なく、そこでしたら他を何も気にせずにいられるのです。それが書店です。周囲の視点など関係ありません。私の前には沢山の本があり、もうそれだけしか見れないのです。他人も自分も全く意識の外、そんな癒やしを求めて私は今日も立ち寄ります。

つっぱることが男と勲章?

60代の男性とお話する機会があって、学生時代のことを聞きました。その方は福岡出身なのですが、かなり不良だったようで、事あるごとに喧嘩していたと言います。とても穏やかな面持ちにその影は見えず、半信半疑になりました。番長、チンピラ、ヤンキーなどのワードは私にとって遠い世界です。学ランも上を短くし、ズボンをダボダボにして履くのが流行ったそうで、髪の毛もリーゼント。とても想像できるものではありません。小説やドラマでそのような人を描いたものがあるのは読んでいて知っているのですが、身近で聞く機会はいままで殆どなかったので、とても新鮮な感覚でした。
「痛いのは嫌じゃないですか?」と聞くと「ヤだけど、売られたものは受けてたなァ。なんかね、時代だったしね。僕はそんなに強くなかったけど、のしたり、逆にボコボコにされたりはしたな。ボクシングとか空手とかやっているすごく強い奴と友達でね。それで助かったこともあって、友達って大事だよ。でも若かったからね」
思わず聞き入ってしまいました。「今でももし、いちゃもんつけられたら買います?」と冗談半分の私に「そうだね。きっとやっちゃうね」と朗らかに微笑って答えていて、男の人ってそうなんだなぁ、ってなんだか面白かったです。でも、物語の世界だけでいいな、と思いました。

対策を練らねば

30代半ばの友達と、この前、久しぶりに会うことになり、近所のカフェで待ち合わせてお茶を呑みました。その時に「昔は小説とか大好きで、純文学にハマっていたけれど、今ではもうなんか読めなくなってしまったのよね。なんでなんだろう」と話していました。私も不思議に思って考えたのですが、思い浮かびません。「生活になんか変化が起きたとか・・・」と、なんとはなしに呟いて、はっとしました。彼女は出産を体験したのです。それにより、子育てや家事など大変なことがかさんでいました。
「きっとそれだよ!」と言うと「ああ、そうかも」と同意が帰ってきました。読むことは、結構精神を使いますから、他にやらなくてはいけないことができるとちょっと距離が遠くなってしまうのかもしれません。それは今の私にしては少し寂しいことのように思います。
「物語が滑っていっちゃうんだよね。こう、頭に入り込まないの」確かに、疲れている時や体調不良の時、私もそういう事があります。あれが毎日続いて、ずっとそうだったら、読書離れしてしまうのかもしれません。なにかいい対処法がないか探しているのか未だに見つかりません。日常が慌ただしくなったとき、どれぐらい触れあえる時間が減ってしまうのでしょうか。なんとなく戦々恐々とします。

飛行機と宇宙の果てしなさ

とても風の強い日に飛行機に乗ったら、いつもより高度を上げて飛んでいるのか、空が深い色でした。雲の上なので、遮るものが何にもない上空は宇宙の蒼さでした。狭い窓から見あげて、今、自分が宙に浮いていることがとてつもなく不思議なことに思われ、また、怖くも感じたのです。
もしも、機体が360度透明だったら、相当に恐ろしいんだろうな、と妄想するとゾクゾクしました。足元が見えたらさぞかしヒュッとなることでしょう。「もしかして、もう開発されているのかしら」と思って、後日パソコンで検索したら「ヴァージンアトランティック航空」で通路の床底が完全にシースルーにしている旅客機が投入されるという記事を見ました。文字通りぞっとしました。他には、乗客が座る機体内部の壁面に機外の映像を映しだすというのも発見し卒倒しそうになりました。
まだ外国だからいいけれど、これが日本でされたらたまったもんじゃありません。「宇宙エレベーター」なんてものもあり、人類はここからどこに向かうのだろうと想像すると、その果てしなさに尻込みしてしまいます。平和で安全で飢えることがなくなればそれでいいな、という私にはもっと身近な問題がどうにかならないものかと、どうしても考えてしまうのです。とりあえず、SF小説を楽しむくらいが私にはちょうどいいのかもしれません。

タコを食べながら思い出したあの日

たこ焼きを食べて、ふと思い出しました。何年か前の正月、特に予定もなく暇だったので近所のかなり大きな公園に行った時のことです。時代はテレビゲームが興隆していますが、わりあい沢山の人が元旦らしい遊びに興じていて、なんとも微笑ましく、私は脇のベンチに座りながら持ってきた小説を読んでいました。すると、目の前を男の子が駆け抜けます。凧を上げるために走っていたのでした。
おじいちゃんと二人で来ているようで、龍の絵が空に浮かび上がるのを見ていたら、突然「違う! そんなんじゃいかん! 駄目だ! 下手くそが!」と孫を叱ります。あれこれ横から指図していましたが、やがては「かせ!」と、奪い取り、自分があげ出したのを見て、笑いをこらえる事が出来ませんでした。しかも、かなり上手いのです。風を読んでいる動きでした。
羽根つきをしている父と小さい娘もいました。この遊びの由来は、蚊に刺されないようにする、というものと、女の子に悪い虫(男)がつかないようにする、という願いが込められているらしいのですが、室町時代から続くこの風習がずっとこの先も続けばいいのにな、なんて事を思います。帰ったらお雑煮を食べて福笑いでもしようかしら、とのんびりとした一日でした。

いつまでも夢みる少女でいたい……。

なぜ私がこんなにも小説を年がら年中読んでいるかといえば……。そう、それは夢を見ていたいから。恋をしていたいから。 そんな願望を叶えてくれるる夢小説。好きなあの人から名前を呼んでもらえるだけで胸の高まりがやみません。